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子どもと大人の「境目」におしっこが関係?――『深呼吸の必要』

悠々です。もはや子育て期は“懐かしい”と感じる世代になってしまいました。私は、聖教新聞の教育・子育て欄の担当記者を15年以上経験しました。ちょうどその期間が、まさに私自身の子育て期と重なっていたのです。

ここでは、そんな子育て期を振り返りながら、いま思うことを時代の変化も交えつつ、つづらせてもらいます。ビビッドなエピソードは、現在進行形で書いてくれている人たちに譲るとして、私は子育て期間に自分が読んだ本を軸にして書いてみたいと思います。

大学生の頃、「大人になるって、何をもって決めるの?」ということがよく話題になりました。親元を離れて暮らす日々、そして成人式という節目が、学生生活のど真ん中にあったので、こうした話題に関心があったのかもしれません。
 
そんなとき、多くの人は、基準として年齢を挙げませんでした。そうではなく、「自分の収入で生活できるようになってから」とか、「運転免許証を持ってから」や「家の価値観から自立したら」など、さまざまな意見が交わされたことを覚えています。
 
今から考えると、運転免許証を持っていないと大人ではないという理屈は、かなり偏っていますね。当時はそれだけ、運転免許を取ることが、人生の中で重きを占めていたのでしょう。
 
辞書を引いても、「大人」には、辞書によってさまざまな表現があり、その説明に苦心している感じが伝わってきます。中には、考え方や態度が十分に成熟している、その場の感情や目先の利害などにとらわれない、など、かなり“立派な大人”が想定されているものもありました(笑)。
 
その後、結婚して、子どもが生まれ、こうした話題から遠ざかりました。日々、目の前の現実にがむしゃらに生きていたからだと思います。
 
その頃、一冊の詩集を手に取り、そこに収められていた詩の発想に、目を見開かれました。
 
長田弘さんの詩集『深呼吸の必要』(単行本は晶文社、文庫はハルキ文庫)の中にある、「あのときかもしれない」という詩です。

「きみはいつおとなになったんだろう。きみはいまはおとなで、子どもじゃない。子どもじゃないけれども、きみだって、もとは一人の子どもだったのだ。」

(ハルキ文庫P10)

 こんな始まりの詩で、大人になった「あのとき」、子どもと大人の「境目」を、いろんな視点から問うていく構成になっています。
 
その中で、私が何に驚いたかというと、子どもが「生まれてはじめてぶつかった難題」について書かれている箇所です。それまでは、親をはじめ周りの大人が全部やってくれていたのに、初めて自分で決めなければならなかったこと。そう、「それは、きみが一人で、ちゃんとおしっこにゆくということだった」
 
大げさでなく、衝撃的でした。確かに自分で判断して行動できるようになったということは、大人の始まりかもしれません。でもそんな目で見たことはありません。そこに「大人になる」ことの起点を感じていることに驚いたのです。そして「そうだ。その通りだ!」と思ったのでした。
 
小さな子にも人格を感じながら、一人の大人と対するように接していくことの大切さをいろんな機会に聞いてはいたので、頭では分かっているつもりになっていましたが、まさに「腑に落ちた」という感じです。「こういうことなんだなあ」と、生活に即して納得したと言えばいいのでしょうか。
 
それからは、子どもが「自分で判断して決める」ことの意味を、とても大きなこととして受け止めるようになりました。親が無責任になるということではなく、子どもが自分で決めるまで、「待つ」「見守る」ことを意識するようになったのです。
 
でも、これがかなり難しかったですね。日々の忙しさの中で、「待つ」「見守る」は、親にとって最大の修業かもしれません。どうしても目先のことでイライラしてしまいがちでした。
 
ただ、少しだけでも、心がけ、意識しはじめることが大事なのだと感じました。すべては、そこからしか始まらないからです。
 
詩「あのときかもしれない」の中には、ほかにもさまざまな視点で「あのとき」が語られています。興味をお持ちの方は、本を手に取って、味わってみてください。
 
本のタイトル『深呼吸の必要』は、これまで読んできた本の中で、一番印象深いものかもしれません。きっと、子育て期間に限らず、ちょっと“深呼吸”をするだけで、気持ちが落ち着くことを経験的に知ったからでしょうか。

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