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うつとか、不登校とか、「思ってたんと違う」状況になって考えたこと

うつ病の妻、小学3年、2年になる年子の娘と暮らす、みやもんと申します。今回は、「思っていたのと違う未来になっているけど、それも悪くないよね」という話を書きます。

「理想の育児ができず、思い悩んでしまい産後うつになった」という、あるネット記事を読みました。きっと真面目で一生懸命な方なんだと思います。

「こうしたい」「こうなりたい」という思いを否定する気は全くありませんが、たとえイメージしていたのと違った形になっても、「それはそれで楽しめる道もあるよ」とは伝えたいです。というか、実際問題、理想通りいかないことの方が多いですし。

産後うつの妻のことで悩んでいた時、同じような状況で悩んできた先輩に相談したことがあるんです。たいてい相談した場合は、「無理なくね」「体大切にね」なんて言葉をかけてくれる人が多いのですが、その先輩は不敵な笑みを浮かべて、こう言うのです。

「これから、もぉっーと大変なことが起きるからね」


え、何、こわいこわい? 脅し?
言われた頃はビビっていましたが、今思うと「いろんなことが起きるけど、自分なりに精一杯、その状況を楽しんでごらんよ」という励ましのメッセージだったんじゃないか。いや違うかもしれないけど、そんな気がするんです。

先月、取材した方が同じ高校の方だったんです。ネット記事でそこは事前に把握していたんですが、なんと部活も同じでした。しかも、1年の時はサッカー部、2・3年時はオーケストラ部という“異色の経歴”もいっしょ。おかげで取材は終始、和やかな雰囲気でできました。

私は高校1年の秋頃、練習中に足をケガしてしまい、サッカー部を辞めなければならなくなりました。その後、親友に誘われるがまま、オーケストラ部に入ってしまいます。

スポーツしかしたことがなく、日に焼けて丸坊主だった私は、ブラームスの交響曲第1番の楽譜をにらみつけながら(楽譜が全然読めなかったので汗)、“場違いなところに来てしまった”といつも思っていました。

でも、下手くそなりに努力した甲斐あって“世界”は広がったし、こうやって時を経て、取材で場が盛り上がることになったし、結果オーライだと思います。ケガした後、ふさぎ込まず、新しいことにチャレンジしてみてよかったです(Y君、オケ部に誘ってくれてありがとう)。

「あきらめたらそこで試合終了ですよ」の安西先生(「スラムダンク」)の言葉ではないですが、古代ローマの哲学者であるセネカは、次のように書き残しています。

たとえ敵の手に落ちるにしても、武器を保持したままでいる者のほうが、敵に敬意をもたれもするし、安全でもある。(中略)運命が優勢となり、行動の機会を断ち切ったからといって、即座に武器を投げ捨て、あたかも運命が追跡できない場所があるかのごとく、潜伏場所を求めて背走するようなことはすべきではない。
 
無辺の領域のどれほど広大な領域がまた君の背後に開けているか、どれほど多くの諸国民がまだ君の背後に残されているか、振り返って眺めてみるとよいのである。いかに大きな部分が閉ざされていようと、それ以上に大きな部分が残されていないことは決してない。

『生の短さについて 他2篇』(岩波文庫)の「心の平静について」P86〜87

想定していた”経路”や”移動手段”が途中変わったからといって、人生という旅が楽しめなくなるかというとそうでもない。むしろ、目まぐるしく変化する今の時代的には、変化そのものを楽しめる感覚の方が生きやすいと思います。

と、ここまで言語化して今の状況を整理しつつ、自分で自分を励ましているのでした笑。実は、ゴールデンウイーク明けから、小学生の次女が不登校になり、どうしたものかと夫婦であたふたしていました。でもまあ、この状況からどんなことができるのか。また起こせるのか。困った状況にいますが、不思議とどこかワクワクしている自分もいるんです。変ですか? 変ですよね。

子ども目線に立ちながら、より良い方向を模索していきたいと思います。

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