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感動の再会のはずが…妻は叫び、倒れました

うつ病の妻、小学2年、1年の年子の娘と暮らす、みやもんと申します。産後クライシスをいかに夫婦で乗り越え、子育てしてきたのかを綴っていきます。

2017年の1月初旬の早朝、「(次女が)予定より早く生まれそうだ」という義母の電話で目を覚ましました。
 
「必要な荷物は何だ、何だ」と自身に言い聞かせながら、私は慌てて身支度を整え、羽田空港へ。向かうは、里帰り中の妻がいる九州です。

数時間後、病院で初対面した娘は顔も体もしわくちゃで、私に似たのか毛深く、やたらと髪がふさふさしていました。
 
数日過ごし、私はいったん東京に戻りました。
出産から1週間後、妻から「気持ちが不安定で、ふとすると変なこと(自殺)を考える( T ^ T) 自分は怖がりだから実際はそんなことはしないんだろうけど。来週月曜、心療内科だから、話してみる」とLINEがありました。
 
出産の喜びも束の間、突然の”死にたい”発言に正直驚きましたが、妻の不安を増してもしょうがないと思い、私は平静を装うことにしました。「特に今はそうゆう時期なんだろうと思うよ。変なことを考えたとしても後悔する必要はないと思うよ」と返信しました。
 
「焦るとよくないね。しかも低気圧でめちゃ頭痛。今日はもう何もできない」
妻は肌が赤く腫れるのも気にせず、おでこや、こめかみのあたりに、ひたすら湿布を貼って過ごしていました。出産から2週間後、妻は医師から「パニック障害」、しばらくしてから「産後うつ」と診断を受けました。
 
義母や親戚の力を借りて、妻のケアと赤ちゃんのお世話をしてもらいつつ、私は東京と九州を行き来しながら今後の生活環境について思案しました。
 
生後3カ月の次女を4月から保育園に預けられるよう、東京で最終手続きを済ませました(ほとんどの手続きは妻によるところが大です)。

九州にいる妻と子どもたちも、東京に帰る準備をしていましたが、妻の体調が安定せず、何度か飛行機の搭乗を試みるも、なかなか叶いませんでした。話し合った末、無理をしても仕方がないので入園式の参加は諦めました。

妻「今日○時○分の便で帰ろうと思う」
私「了解、気をつけてきてね」
 
妻「ごめん体調悪くて無理だった」
私「わかったよO K」

 
――このようなやりとりを何度繰り返したことでしょう。妻は空港に向かうバス乗り場まで来て、引き返すこともありました。それでも、次女の予防接種のタイミングを見計らい、4月後半になって、ついに義母と妻、娘二人で東京に帰ってくることになりました。
 
“まずは部屋を掃除しておこう”
居間だけでなく、玄関まわりなど、 “過去一”で家の中をピカピカにしたと思います。そして、何度も時計やスマホに目をやりながら、到着を待ちました。
 
ピンポーン。
「おかえり!」と言いつつ、私は玄関のドアを開けました。
 
感動の再会、のはずでした。
 


「部屋が狭いぃぃ!」



妻は玄関に入ってくるなり、そう叫ぶと、パニック発作を起こしてその場で倒れ込みました。
 
“ん? え?”
 
何が起きたのか、わけも分からず、とにかく妻を介抱し、布団で休んでもらいました。
(妻は当時のことをあまり覚えていないようですが、「家に着いた瞬間、ここから親の支えなしに自分たちだけでやっていけるのかと、ふと不安になり、発作が起きたかもしれない」と語っています)
 
妻を心配しつつ、あの時、私の心の中ではこんな感情が渦巻いていました。

“せっかく部屋中、ピカピカにしておいたのに、第一声がそれかよ…”
 
妻や子どものことよりも、「部屋の掃除を感謝されたい」という、自己本位な“残念な自分”がそこにいました。心のどこかで、「自分がしたくないことまで、わざわざ“してあげている”」という気持ちがあったのかもしれません。
 
これまで仕事で、教育や子育て関連の記事を書いた際、上司から「『子どもに教えてあげる』は上から目線に見えるし、やめよう。『教えてあげる』でなく『教える』でいいんじゃないか」と指摘され、ハッとしたことがありました。頭で分かっていても実際に行動できるかどうかは、また別の話なのですね。
 
妻のケアでも、育児でも、想定外のことがたび重なり、“してあげているモード”では到底、太刀打ちできません。私は早速、行き詰まることになります。
 
(つづく)

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