妻の考える育児の量と、夫の考える育児の量はなぜ違う?
今週、めずらしく息子が体調を崩しました。
40度まで熱が上がり、翌日、体中に発疹が現れて・・・。
ヘルパンギーナかなと思い受診したところ、
まさかの「ヘルパンギーナ」と「手足口病」の両方に罹患していました。
「そんなこと、あるの?」といろんな人に聞かれましたが、そんなことがあるんですね。びっくりです。
私の心配をよそに、翌日には下熱し、元気いっぱい遊んでいる息子。
毎日、薬を飲ませることに苦戦しながらも、なんとか今日までの3日間、無事、飲ませることができました。
全部飲ませられた瞬間、
「よし!」
と心の中でガッツポーズしています。
子どもの看病で大変なことはいろいろありますが、その中でも私が断トツでストレスを感じるのが、「薬を飲ませる作業」です。
この苦労と言ったら・・・・・・。
まずはそのまま水に溶かして飲ませようと試みます。
それで嫌がったら、ジュースやココアに混ぜてみたり、アイスにかけてみたり。
わが子たちは成長とともに、嫌がるものや大丈夫なものが変わるので、「前回はこれで飲んだから、今回も・・・」は通用しません。毎回、試行錯誤しながらです。
こういう大変さを私は勝手に
“名もなき育児”
と呼んでいます。
“名もなき家事”とよく言いますが、
育児にも、同じように明確な名前がつかないミッションや考えることがたくさんあります。というか、もはやそれしかない。
例えば
・風邪気味の時は消化がいいごはんを作る
・鼻水や咳が出ていたら病院に連れて行くか判断する
・保育園を休ませるか決める
・子どもの洋服や靴がサイズアウトしたら、子どもの好みを考えて買い換える
・保育園から「いつまでに〇〇を持ってきてください」と言われたら間に合うように準備する
・おむつがなくなりそうなのに気が付いて買い足す
・習い事を始めるのかどうか考える など
いろいろ考えては決め、また考えては決める。この繰り返しです。子どもと一緒に過ごしていない時間も、子どもに関するあれこれを考えている。頭がずっと稼働している感じです。子育てって、本当に知的な営みですね。
最近読んだ本で、こうした作業を「感覚的活動」と呼ぶことを知りました。
本には、
とありました。
例えば「ごはんをつくる」という作業。
食材を調達し、料理するという活動が、子どもの生活・生存を支える営為、すなわちケア労働となるのは、「感覚的活動」が行われているからだそうで、
ということをしているのです。確かに私も自然とこうやって考えながら、日々、試行錯誤していると実感しました。
「感覚的活動」は、目に見えません。
行っている当人ですら、自覚していないことも多くあります。
だから、妻が考える家事や育児と、夫の考える家事や育児は、量も質も異なるのかもしれません。
私自身、以前は「夫は育児の全貌を知らない」とよく思っていました。
そんなことを考えつつ、同時に、家事や育児を通して備わる「他者の状態を感知して、相手の状況に合わせて調整する力」は、創価学会の活動をしている中でも身に付けられると思いました。
悩んでいる人がいたら、励まそうと自ら動く。 そして相手が何に悩んでいるのか、求めているのかを敏感に察知して、言葉を紡ぎ、共に行動する。
・・・はて。
ここまで書いて、ある疑問が頭をもたげます。
なぜ多くの夫たちは、他の人の状況は敏感に察知するのに、妻の状態には鈍感なのか。外で振りまいている、その共感力。家庭内でも発揮してくださいよ。
以前、ワンオペで疲弊していた時、私は夫に放ちました。
「あなたが今、一番励ますべき相手は、わたしだよ!」
家庭内の平和と、良好な夫婦関係のためにも、お互いに共感力を発揮して、労り合っていきたいですね。