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不登校の娘に学ぶ。「自転車に乗れた」には乗れた以上の価値がある⁉︎

うつ病の妻、小学3年、2年になる年子の娘と暮らす、みやもんと申します。今回は「次女の不登校で気づいたこと」について書きます。

最近、自転車のペダルをこぐのが少し楽しい。

日頃、移動手段として、買い物に行くにも何にでも、私はよく自転車を使います。何か乗り物というよりかは、”足”という感覚に近く、乗っているのを特別意識することは、まずありません。

ですが、2週間あたり前から次女が、補助輪なしで自転車に乗れるようになりまして、今は親子それぞれ自転車に乗って移動できる楽しみを味わっているところです。

平均的に見ると、小2で乗れるようになったことは、特に早いというわけではないんでしょうが、まあそんなことはどうでもよくて。娘なりにステップアップして、ある日、ふわっと風を味方につけたようにペダルをこいだ姿を見て、すごく感動したんですよね。

娘が不登校になってから、「この子なりのペースと環境で成長していけたらいい」と自分に言い聞かせるようにしてきました。

けれども、正直にいうと、何かの拍子で娘が「学校に行って勉強できてないこと」や「同世代の子たちとの交流が激減したこと」に対して、漠然とした不安や焦り(社会全般への怒りなんかも?)が押し寄せることがたまにありました。家で子どもを見るのって大変だし、妻も負担増で体調が下降気味だったのも気になります。

フリースクールなどを見学して、親から見て「いい感じじゃん」と思っても、娘は首を縦に振らない。何とかせねばと必死になればなるほど、空回りしてしまう。関わりすぎてもダメだし、ただ放っておくのも違う。

む、むずい。


どうしたものかと頭を抱えていた時に、娘が自転車に乗れたんもんだから、喜びがより大きかったのでした。

そして驚いたことに、娘が自転車に乗れた数日後、たまたま見学に行ったフリースクールで、「ここ楽しそう」と娘が言うんです。

きっと娘にとって、そのフリースクールがとても魅力的に映ったのでしょう。でも、”それだけなのか”という気も自分はして。もしかしたら「自転車に乗れたこと」が彼女の心を軽くしたんじゃないかって思うんです。「乗れた!」という自信が、彼女の可能性を広げたんじゃないかと。

「スピードを出してはブレーキをかける」をひたすら繰り返す次女。地面に残るブレーキのあとを眺めては満足そうな顔をしていました

「不登校を何とかしよう」ーーここに焦点が当たりすぎると、子どもにとってはプレッシャーにしかならないということを今回学びました。もっと、子どもの得意なことや興味・関心にも目を向けながら、柔軟な目標を立てていけるといいんですかね。言うは易しですが、未来への種まきだと信じて、いろいろトライしてみます。

最後に、最近、励みになった言葉を書き残しておこうと思います。

〈絵本作家・ヨシタケシンスケ〉
大人側も子ども側もすぐに結果を出したがるんだけれども、「20年前に言ってたのはこのことか」「あのときすごい探そうとしてくれてたんだな」と、誠意はやっばりいつかは伝わるんですよね。わかってくれるんですよね。それが2、3年っていうスパンじゃないっていうだけの話で。だから、もがく側のその熱意っていうのは、今思ってるほど燃費の悪いものではないとなんとなく自分もわかっていて。

父親と仲が良くなかったと言いましたが、父は表現がうまくなかったというのがすごくあって、当時は許せなかったけど、大事にされていた、愛されていたというのは今ではわかる。だからそういう意味では20年後に向かって種をまくしかないし、子どもが抱えている問題に対してできることは入り口への案内までなんですよね。すごく核心に迫る部分というのは、逆にほっといてくれってところでもあるかもしれないですし。あとはそれ以外の気晴らしとか箸休め的な存在になれたらな、とか。突然脇腹をこちょこちょくすぐれる相手がいるっていうだけでも、全然違うじゃないですか。

花田菜々子『モヤ対談』P24 「ヨシタケシンスケ 大人だって完璧じゃない」

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