娘が愛を注ぐもの、それは…
娘は石が好き。
公園では両手にスコップとバケツが標準装備。
公園に着くやいなや、さてさてと石採集が始まります。
私が良かれと思って
「あ、ここにも石があるよ!」と教えると
「うーん、それはちがうねー」と、
どうやらこだわりがある様子。
しばらくすると、バケツの中には結構な量の石たち。当然、娘はこの子たちと一緒に帰りたい。
「お家に持って帰るのは1つだけにしようか」と、娘に一つ選ばせます。
こうして、我が家の玄関にはたくさんの石。
ここまでは、微笑ましい話ですが、娘の石への想いは公園の中だけにとどまりません。
それが、何かと大変なのです。
例えば、自宅近くのコンビニまで歩いて買い物に行く時。
道端に気になる石を見つけた娘。
「いしちゃんも、いっしょに♪」と、
石もコンビニへ同行することに。
今度は、拾った石で電柱をコツコツ叩いたり、マンホールの穴に入れようとしたり、楽しそうな娘。
が、なかなか前に進めない。
まさに、3歩進んでは2歩下がる。
私も娘の好奇心に付き合いたい気持ちは山々。
しかし、次の予定もあるので早く買い物を終わらせたい。
急に切り上げさせては、娘の機嫌が悪くなり、さらに時間がかかってしまうはめに。
私は「そうだね。おもしろい音が鳴るねぇ!」と言いながら、どうすれば娘の機嫌を損ねずに、早く目的地にたどり着けるのか…
という思いが巡る。
こんな時はたいがい、
「『よーいどん』しよっか!」
と言って、娘の気持ちを石からそらします。
がしかし、道中はトラップが多い。
次に現れたのは、砂利の駐車場。
娘は吸い込まれるように、大量の石のもとへ。
石を蹴ったり、拾ったり、投げたり、彼女にとっては最高の場所です。
こうなると「コンビニ行こうねー」の声は彼女には届きません。
どうすれば、前に進めるのか…と考えた結果、
「コンビニでお菓子買おうか!」と、つい予定してないことを約束してしまうのです。
“おかし”という言葉に対する娘の感度はとても良い。
さっきまで石とたわむれていたのがウソのように、「うん! いく!」と気持ちはお菓子に向けられ、勇み足でコンビニへ。
一方の私は、「あぁ、またこの手を使ってしまった」と反省。
こうして、ようやく買い物を済ませたものの、帰りも行きと同じ道を歩くので、当然、なかなか帰宅できません。通常往復15分ほどの道に、40分以上かかってしまいます。
0歳の息子を抱きながら、いつ車道に飛び出すか分からない3歳児の娘と30分以上歩くのは体力も気力も削られます。
はよ、帰りたい(涙)
そんな母の気持ちも知らずに、娘はご近所さんの家の前に敷き詰めてある、きれいな石を蹴ろうとしたり、持って帰ろうとしたり…。
帰宅したときには、もう疲労困憊。
できることなら、ソファで横になって寝たい。
「誰か、お茶をいれてくれませんか。なんならついでに肩揉んでください」というのが本音。
他にも、娘の石へのこだわりで困り果てたエピソードが。
公園から一緒に家へ帰るはずだった“いしちゃん”を無くしてしまったときです。
「ない! いしちゃんがぁぁぁ!」
娘は道端で大号泣。やっとの思いで公園を切り上げたのに、また公園に戻るのか…。
私「いしちゃん、お散歩いったのかもよ」
娘「こうえんにいかないとー! ないのぉぉ~! いしちゃんないてるよぉぉ」
もうあかん。これは、一旦公園に戻らんと娘の気持ちは収まらんわ。
母も心で泣いてるぞ! 娘よ!
ということで、公園に戻ったものの、先ほどの石を見つけるのは不可能に近い。
何せ、私にはどれが“いしちゃん”なのか分からない。
ところが、「ママ! いしちゃんいたよ!」と、娘は発見できた様子。
(ん? こんな形やったかな。ま、とりあえず見つかったみたいでよかったわ)
と胸をなでおろしながら、
「ほんとだ! よく見つけたね!」と、普段の倍のテンションで一緒に喜びます。
もちろん、すぐに帰れるわけはありません。
再度、滑り台やブランコなどでひと通り遊んでからです。
結果的に帰宅は予定より1時間ほど遅くなったのでした。
親にとってはただの石でも、娘にとっては宝石のようなもの。
興味関心が広がり、あらゆるものから刺激を受けている娘にとって大切な時間。
「彼女の好奇心が育っていくのを、ゆっくり見守れる親になりたいなぁ」という気持ちと、「そやかて、やらなあかんこといっぱいあんで!」という気持ちの間にいる毎日です。