「すみません」を「ありがとう」に変えたら、ハズレが当たりに見えてきました
けさ、朝食で次女が食べる納豆のフタを開けてみると、“あるはずのもの”が入っていませんでした。
からし、です。
子どもなので、厳密に言うと、からしは使わないのですが。入っていない事実にちょっとびっくりしました。
次女は納豆が好きすぎて毎日、何パックも納豆を消費します(一食で4パックいく時も)。わんこそばの介添えのように、私は次女の横に立って、バリッ、シャと素早くフタを開けては、しょうゆを注ぐ日々。そんな食卓で、からしの封入ミスを発見したのでした。
「むしろ、当たりなんじゃない?」
そばにいた妻が言いました。
「え、当たり?」と一瞬思いましたが、
「なるほど、かもしれないね」と私は言葉を返しました。
何でもない日常のやりとりでしたが、心の中で静かに感動している自分がいました。
“当たり”と捉える妻の感覚というか、ユーモアというか、余裕?みたいなものに、私はできるなら学校の先生が赤ペンで入れるような大きな花丸を書いて送りたい、そんな衝動にかられました(妻は元々、自分よりも面白い人ですが)。
◼️頭を下げ続ける日々
「ごめんなさい」。妻はいっとき(といっても数年)、布団で横になりながら、口癖のように言っていました。うつ病の症状がひどく、体が思うように動かせない。悔しいし、夫と子どもたちに対して申し訳ない。そんな気持ちから出た言葉だったようです。
「謝らなくていいんだよ」と私は妻に伝えるのですが、病気の症状も手伝ってか、頑なに妻は自らを責めることをやめません。
どうしたものか……。自分も思い悩むようになりました。
なぜなら、謝られ続けると、言っている本人だけでなく、言われている方も、だんだん気が滅入ってくるからです。
“謝らせている空気を私がつくっているんじゃないか”
“謝るくらいなら少しは手伝ってくれよ”
自己否定する時もあれば、育児・家事で疲れている時は怒りが湧いてくることも。日に日にネガティブな思考が頭の中を支配していきました。
そんなある日、精神疾患の家族を支えている人の話を聞く機会がありました。その方は「最近、感傷的になりすぎて、もしかしたら自分が病気なのかもしれない」と言いました。
自分が病気――この視点は新鮮でした。
精神的な病があった哲学者ニーチェを診た医者が、こう言ったことがあるそうですが、確かに私も妻と同様、いやそれよりも神経質になっていたのかもしれません。
思い返すと、
自分自身もいつしか「ごめんなさい」「すみません」と口にすることが増えていました。
子どもの状況(熱が出た、トイレ、泣いて言うことを聞かない)と妻の体調の浮き沈みに合わせると、仕事等でスケジュール通りいかないことが多々あります。その度に関係者の人たちに「すみません」と言っていました。
自分、このままで大丈夫かな。記者として、親として、パートナーとして自己肯定感がどんどん下がっていたんだと思います。このまま心を削っていっても良いことはありません。
私は仏壇の前で南無妙法蓮華経と真剣に題目を唱えました。
そして、「自分で自分を傷つけるような言動は減らしていこう」と思い立ちました。
具体的には、
夫婦間では、「ごめんね」よりも、「ありがとう」という言葉を増やしていきました。謝られるより、感謝する方がお互いに気分はいい。ただ、妻の気持ちは尊重します。無理やり「ポジティブにしていこう」というのも、何だかシンドいので。ネガティブモードでいきたい時はそれもまたよし、に。
家族以外の人とのやり取りでも、「すみません」ではなく、「ありがとうございます」「助かります」と言うようにしてみました。
少し言葉を変えただけだったかもしれません。ただ、ありがとうには力があるなと感じました。それは「今」を肯定する力です。
「すみません」とひたすら頭を下げていた頃、私は「こんなはずじゃないのに」と、今を受け入れずに、早くその状況から抜け出すことばかりを考えていたような気がします。
でも、感謝の言葉が増える中で、相手も、自分も少しずつ肯定できるようになったし、何より「今も今で悪くない。けっこういいじゃん」と捉えられるようになっていきました(本当に少しずつ、です)。
こちらの心の状態次第で、同じ現実であっても、全く見える風景が変わっていきました。このビフォー・アフターの感動を味わえたことは財産です。
(つづく)