時々立ち止まって確認するのは、自分の心が付いてきているか
ちょっとお休みしていました。その間、実家で1人暮らしだった父が亡くなったのです。葬儀を終え、今はさまざまな後片付けに忙しくしています。
私とヘルパーさんで、父の介護生活を支えていました。車椅子と杖を頼りにして、半身麻痺ではありながらも、父は元気に暮らしていたのです。しかし、デイサービスの迎えに来た方が、倒れていることを発見してくれ、すぐに救急搬送を手配。一緒に救急車に同乗した私は、車内で搬送先の病院が決まるまで、小一時間待たされましたが、最近はこれが常態化していると救急隊の方も嘆いておられました。
病院に着いて検査の結果、即入院が決まりました。急性の肺炎との診断で人工呼吸器を付けられ、ICU病棟へ。入院2日目の深夜、病院から呼び出しがあり、日付が変わると間もなく、亡くなったのです。最期はとても穏やかな表情で、静かに息を引き取りました。文字通り、“息を引き取る”という言葉が相応しいなあと感じる中、緩やかに呼吸の頻度が少なくなり、家族に看取られました。
介護中、父はいつも「ありがとうね」と言葉をかけてくれました。この一言が、忙しい日常の中で介護にあたる“しんどさ”を、どれだけ和らげてくれたことでしょうか。もし、そこで言葉を荒げてぶつかり合っていたとしたら、長い介護生活を続けられた自信はありませんでした。
自分が父の介護をし始める前のことですが、私は聖教新聞に介護のページを作りたいと提案しました。そのときも、読者の声が後押ししてくれました。「これからの時代、子育てと同じくらい、介護をする人が増えていきます。だから子育てのページと同じくらい、介護のページがあってもいいと思います」という趣旨の手紙をいただいたのです。
その後、介護のページを新設し、紙面制作にあたりながら感じたことがあります。それは、介護と子育ては、その課題や心がけたい点などが似ているということでした。役に立つハウツー的なアドバイスもありがたいのですが、それ以上に、不安でいっぱいな気持ちを安心させてもらったり、苦しいのは自分だけじゃないんだ、と気分転換できたりすることの大切さが共通しているのです。
日々の介護では、やるべきことを整理し、ルーティン化していくことも多いと思います。私もそうすることで抜け、漏れがなくなりました。でも、そうなるとどうしても一つ一つが“作業”になってしまい、マンネリ感が逆に自分を苦しめました。何かモヤモヤしたものが消えないのです。
それで、小さなことですが、同じ区内にある実家に向かう自転車のルートを、たった30分ほどの道のりですが、毎回少しずつ変えてみることにしたのです。そんなわずかな工夫が、自分の中に生まれるマンネリ感を打破し、道々の変化や発見を楽しむことにつながりました。
それで気分が晴れやかになるのですから、本当に不思議なものです。こちらの心一つで、同じ現実であっても、見える景色が全く変わってくることを痛感しました。この体験は、その後の生活にも大いに役立っています。
以前、星野道夫さんの『旅をする木』(文春文庫)という本を読んだとき、こんなエピソードが紹介されていました。星野さん自身の体験ではなく、何かで読んだ話として紹介されていました。それは、アンデス山脈へ考古学の発掘調査に出かけた探険隊のお話です。
それでも動こうとしない彼らに、現地の言葉を話せる隊員が、一体どうしたのかと、シェルパの代表に尋ねたというのです。すると、予想外の答えが返ってきました。
これを読んで思ったのは、私たちも忙しさを理由にして、家族や友人に対して“心ここにあらず”という振る舞いをしていないか、ということでした。以来、日々の生活の中で、自分の心が行動に付いてきているか、時々、立ち止まって考えるようにしてきました。
介護も子育ても、こうした“悩み”と“気づき”の繰り返しですね。でも、それでいいのだと、今は思っています。