自分は自分を楽しんでいるか。「父として」をいったん抜いて考えてみた
あんまり人に言うことでもないのかもしれませんが、実は今、肌がかゆい。ものすごく。秋から乾燥のため、じわじわと体全体に広がっている。皮膚科の薬もあまり功を奏さず、特に1月になった最近では手のひら、足の裏までかゆくなり、夜中、何度も起きるほどです。
「ストレスじゃない?」
「腸内環境を整えたら?」
なんて周囲からのアドバイスも受けながら、あの手この手でいろんな方法を試しています。
今までこんなふうに苦しんだ記憶がないから困ってしまいました。
肌が荒れた当初は、皮膚科から出されたワセリンを入浴後に自分の体にぬりながら、「ああ、娘が赤ちゃんの頃、よく塗ってあげていたっけ」なんてノスタルジーにひたっていたのですが。そんな余裕はどんどんなくなり汗。
完全に不意を突かれた形です。かゆくて、眠くて、余裕ねえよー。
日頃、虫刺されでかきむしろうとする、わが子の手を制止し、「かいたらもっとかゆくなるよ」「あとが残ったり血が出ちゃったりするよ」なんて言っていたのに。自分もかくのを中々やめられません。
子どもの「ねえねえ聞いてよ」話も、こんな"かゆ・ねむ"状態では気もそぞろになります。
一体何が起きたのでしょうか。例年より乾燥がひどいから? それもある気がしますが、何か他にもあるような。
もしかしたら、
ここ最近、自分のことよりも子どものことばかりに意識を集中しすぎていたのかもしれません(娘の不登校のこととか)。「そりゃ親ならそうでしょ」と突っ込まれたら、それまでですが。
振り返ると、
美味しいものを食べたり、きれいな景色を見たりすると、まず「子どもに体験させたいな」と思ってしまう。嫌な事が起きると、それこそ皮膚のつらさも、「子どもでなく自分で良かった」と考えてしまう。
いや、それがダメとか、自分が素晴らしい親だとか、そんなことが言いたいのではなくて。自分のことを気にしなかったり、後回しにしたりすると、後で”ここぞ”という時に子どものために動けなくなるなと思い、反省した、ということです。
ほら、あれです、あれ。搭乗した飛行機内で緊急時の場合、まず、子どもでなく親が先に酸素マスクをつけて、自身の安全を確保してから子どもに対応しようって促されるじゃないですか。
親業を長くやっていくなら、「私」自身も適度にメンテナンスしながら進まなきゃいけないと学びました(何度目やねん)。
雑誌「文學界」の最新号(2月号)で、作家の鈴木涼美さんが昨年生まれたお子さんについて、こんなことを書いていました(新連載「ちいさなひと」)。
子どもの名について、生まれてから正式に名付けられるまでも、赤ん坊にはさまざまな名がつきます(「バブちゃん」でも、なんでもあり得ますが)。もちろん、実名が決定した以降も、あだ名や、環境・関係性によって呼び名はコロコロ変わります。
ですが、最近親になった鈴木さんは、「ママ」とばかり呼ばれる。そんな状況に(早くも?)少し窮屈さを感じているようです。もっと自分を解放しながら自由に生きていくには、名前を使い分けていく方がいい。「名前ごとにそれぞれ別の世界が持てる気が」するから、と。
この感覚を少し大事にしてみたいと思いました。多くの場合、親は「パパ」「ママ」に一生懸命になるんですが、どこかで別の名で動けるよう、もう少し努力するというか、調整するようにしたい。そうすると、もう少し自分自身の喜怒哀楽に丁寧に対応できるような気がしました。
さっき、これを書いている合間に、信仰についての”アツーい話”を聞く機会がありました。素直に感動しました、そして思いました。子どもや家族のために祈ったり、活動したりしてきた(つもりです)が、もっとバランス良く、「自分のため」(成長とか夢の実現とか)にも頑張りたいな、と。
へび年の本年。脱皮します!
今年も聖教noteをよろしくお願いいたしますー!